働くという価値観の先祖帰り
今、AIの進化によってロボットに多くの職業が人間にとって変わると云われるようになりました
これはとても喜ばしいことだと、私個人は思いますがそれをよく思っていない人もいることもまた事実です
そして、こういった未来が訪れるのもそう遠くはないのでしょう
しかし、今すぐという話しではなくこれには順序があるかと思います
はじめに、情報や単純作業などの専門的なもの特化したロボットの出現からはじまり、汎用性のある動きができるロボットに至っては2045年を目処ということが云われています
こうして、仕事をロボットに任すような時代が訪れたときに、大事なのはその余った時間を人間がどう使うかということでしょう。
堀江貴文氏もこれからの時代はこういったAIの活用により余った時間を使う「遊び」が仕事になると言っていました
このような時代になったときに「労働」というものは何を意味するのでしょうか?
食べるため、お金を手に入れるための仕事はこの世界ではロボットがやってくれるのですから
ここで古典的な労働の価値観をひとつ提示しましょう
労働に対する古典ユダヤ・キリスト教的視点
ユダヤ・キリスト教の視点を一つの例として労働というものをみてみましょう
労働とは人間が神との接触を失ったがために額に汗をして自らのパンを稼がなくてはならなくなったのであってこれは一種の「罰」として考えられていました
したがって、人生の中で真に重要なのは労働の外にあるもので、すなわち「余暇」であると考えらていました。
これから、前述したような未来の世界が訪れたときに人の価値観はこの古典ユダヤ・キリスト教の労働の価値感に近いものになるのではないでしょうか
人間は自らの手で神との接触をすることで、人間は時間を手に入れ「余暇」という固有名詞も聞き慣れない古い言葉になり「主暇」などという言葉に置き換えられるそんな日が来るかもしれません
なんて、路地裏の猫が夢心地で言ってました