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写真・撮影機材、コスプレなど徒然に書いていきます

【雑談・自己啓発】 達人とは?

人間生きていると、生活、仕事などやることをただやるだけをこなすという生き方をする人は少なく、何かしらの趣味をもったり何かに挑戦してみたりとしているのが人生というものだと思います。

こんなことを言うのも、その生きることだけの要素の集合の補集合の部分にあたる「趣味や娯楽」と言い換えてもいいかもしれません、それについて極めるとはと考えてみることの駄文です。

お付き合いいただければと。

 

さてさて、枕にも書きましたが生きるということをするだけでしたら、あとは死ぬまでの時間を自由に持っているのが人間でして、生まれてから往々としてこの生きると言う部分をシステム化することでより簡易になった昨今、その時間の暇つぶしとして様々なことを人間は費やしてきました。ときには、人への貢献や自分自身の知識欲を満たすための勉学や文化というものの構築のための趣味や娯楽、様々なカタチがあるものですがどの道も人は選べてときにそれを極めんとして、のめりこみ没頭する人間がいるのもこれ事実です。

そして、「達人」とよばれる、マスターするということはこれはこれで素晴らしいものです。

人々の尊敬の眼差し、畏敬の念を一身に受けることができるそんな存在です。

これはその道というものをはじめた人間にとっては誰もそのスポットライトをあたることを一度はいいなという思いの羨望を胸に持つものでしょう。

では、この「達人」、「極める」とはどのようなものなのでしょうか?

それを少し考えてみようと思います。

 

達人、極めるとはどういうことか?

 

これについての結論をさきに申し上げますと、合気道を習っていたときの師匠の言葉が一番しっくりくると思いました。

 

「すべてのやることは”湯”と同じで絶えず、そのやるに対する熱意と努力を重ね続けること。自分の身心技を磨き次の段階への能力を得るために、たとえその先が見えなくともやり続けることができること、これをできる人」

これを極めるといい、達人と言われるということですと。

 

では、なぜこういうことを改めて考えようと思うきっかけができたかということですがそれは自分が手品てあったり、撮影だったりと何かを表現することで何かできないかと壁にぶつかり迷ったり、自分のことに疑問を持ったりとしたりすることがあるのです。

そんなときにやはり続けるエネルギーを入れるきっかけになるようなそんな言葉にすがりたくなることもあるかと思うのです、そんな思いで考えるようになりました。

 

こんなことを思い出したきっかけというのも今少し自分が壁の前に立っているからでしょう。

そして、そんなときに色々な人に会い話を聞くきっかけもあります。

自分は要領が悪くてそんなに優秀な人間でもない……、周りの人間がうまくいっているのを見ると自分のやっていることが時折、それでいいのかと思うことだってあるわけですがそんなな時に

この前、お寺でのお話をしていただいて聞いた話で禅の次のような話でした

 

「初心禅心」 鈴木俊隆

 

 

禅の経典によると馬には4種類の馬がいる。

最高の駿馬とふつうの駿馬、駄馬、最低の駄馬

最高の駿馬は鞭の影が見えないうちから、騎手の意思に従ってスピードや方向を変えて

走る。ふつうの駿馬は鞭が馬の身を叩く直前になってはじめて駿馬のように走る。

駄馬は鞭の痛みがあって走る。

最低の駄馬は骨の髄まで鞭の痛みが伝わらなければいうことをきかない。

学習のためならば誰でも最高の駿馬になりたいと考えるだろうが、かなり器用な人間はある段階で大きな壁にぶつかり駄馬になる。

最低の駄馬は辛抱してたゆまぬ練習を続けていくうちに真髄を学びとり最高の駿馬になる

 

つまり自分で最低な人間つまり最低な駄馬であっても、そのたゆまぬ努力を愚直に続けることができる心をもつことマインドセットができていると考えればいいわけです。

そして、それを続けることでいつのまに達人・極めるということになっているらしいです。

しかし、悲しいかなでこの道を続けるということで人は誰でもプライドというものを持ってしまいその道の楽しみとはまた違うものに固執するようになるとその道を続けていくことができなくなることもあります。

 

これの解決方法は馬鹿になること

 

馬鹿といっても一般的な語彙のそれとはことなる意と考えていただきたいところで、馬鹿とは考えない人間のことではなく、タロットカードのフールのような陽気な精神のことである。

「0」であるからこそ、それが意味をするのはあらゆる創造物がそこから湧き出てくる肥沃な空、すなわち新しいものをそこから出現させるための空っぽの状態、これを持つための勇気でマスター(続ける人間)の勇気とは進んで自己を明け渡そうとする姿勢、先生が決めた律、自分で決めた律に求めるところ従うという意味であり、あるいは異なった技能のレベルに到達するために自分が苦労して得た技能を捨てることでもある。自分が成りたい姿のビジョンを描くこと、それが鮮明にできると何をするべきかが見えてくるものらしいです。

 

その物事のを極めようとせんとする人の自己啓発の一助になればこれ幸いです

そんな自分も実際、絶賛迷い迷い人生中ですが、楽しく生きられていることはこれもこれで一つの人生だろうと思う次第です。

 

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